け:KKコンビ【けーけーこんび】

80年代

清原和博と桑田真澄。PL学園の4番とエース、だれが名づけたかKKコンビ。この二人が甲子園に登場してから、27年が経過しました。

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清原和博・桑田真澄:甲子園戦績

 

清原和博桑田真澄

二人がPL学園高校に入学したのが1983年4月、卒業が86年の3月。まさに80年代ど真ん中に甲子園で大活躍した高校球児です。

いいですか、戦績、すごいですよ。

83年:1年生の夏:優勝 

84年:2年生の春:準優勝(岩倉・東東京が優勝) 

84年:2年生の夏:準優勝(取手二高・茨城が優勝) 

85年:3年生の春:ベスト4(伊野商(高知)に敗け) 

85年:3年生の夏:優勝

ぶっちぎりですね。見ているこっちまで、PL学園の校歌、歌えるくらいになりましたもん。

ああ~PL PL 永遠(とわ)の学園  永遠(とわ)の学園 

次に、甲子園での個人成績。

桑田が20勝!!(歴代2位。1位の吉田正男(中京商・現中京大中京)が戦前ですから、戦後はダントツ1位)。

清原が13本塁打!!(歴代1位です)

すばらしいですね~。

では、1985年8月21日に時計を戻しましょう。

高校生活 甲子園での最後の試合です。

3年の夏、甲子園決勝

 

この試合まで、PL学園は、

PL学園 29 - 7 東海大山形
PL学園 3 - 0 津久見
PL学園 6 - 3 高知商

 

と勝ち上がってきて、桑田は3勝。

清原は、この日までに3本のホームランを放っています。

そして、決勝戦。

対戦相手は、山口県代表 宇部商業

準々決勝(宇部商 5 - 3 鹿児島商工)準決勝(宇部商 7x - 6 東海大甲府)と接戦を制してきて勢いに乗っています。

主審は、あの西大立目さん。ああ、80年代の甲子園です。

 

双方が好投手、そして堅守の中、清原が、四回に同点本塁打(今大会4本目、通算12本目)。

 

 そして、六回、「甲子園は清原のためにあるのか!」

この試合2本目の一発が左中間席中段に突き刺さると、テレビで実況していた朝日放送の植草貞夫アナウンサーが言い放ちました。

これで同点。

 

そのまま試合は9回裏のPL学園の攻撃へ。

2死2塁から3番松山がヒット!

ネクストバッターズサークルにいた清原は、金属バットを持ったままサヨナラのランナーと抱き合い、延長に備えてキャッチボールをしていた桑田はグラブをベンチに置いて歓喜の輪に加わったと言います。

 

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R H E
宇部商 0 1 0 0 0 2 0 0 0 3 6 0
PL学園 0 0 0 1 1 1 0 0 1x 4 11 1

控えめに言って80年代最強の高校野球チームが、有終の美を飾った瞬間でした。

1985年の夏、決勝の9日前の8月12日には、日本航空123便墜落事故が発生。

なんだかギラギラと暑い夏だったと記憶しています。

 

運命のドラフト

 

暑い甲子園から3か月。

1985年11月20日に時間を進めます。

かねてから巨人ファンと発言していた清原に、どれだけの球団が指名してくるのか。

そして、早稲田大学への進学を表明していた桑田はどうなるのか。

 

80年代ドラフトの司会と言えば、パンチョこと伊東一雄氏。

 

 

 

 

 

 

独特の声で、複数の球団からの清原への指名を読み上げます。

最終的には、清原を指名したのは、6球団

南海、日ハム、中日、近鉄、西武、阪神。

 

しかし、この中に巨人の名前がありません。そう、巨人は桑田真澄を指名したのです。

 

清原の涙の記者会見。

 

 

 

 

 

巨人との密約説が流れる桑田。

エースと四番、非情の秋でした。

 

80年代の清原

 

涙のドラフトを経て、西武入りした清原。

背番号3を背負って、新人1年目 1986年から大暴れです。

開幕2戦目から途中出場。第一打席は四球。第二打席でホームラン!

 

この年、最も個人的に記憶に残っている清原は、オールスター第2戦です。

ホエールズの遠藤から放った高卒ルーキーとして球宴史上初のホームランです。

同点弾でありましたが、その後全パが勝ち越し、全パ4-3全セとパ・リーグの勝利。

清原はMVPに輝きました。

「個人的に記憶に残っている」と書きましたが、その年、私は浪人生。夏季講習を終えてテレビでオールスターを観戦していた時に飛び出した清原の一撃は、同世代にとって強烈なインパクトとして残りました。

 

プロ入り1年目、本塁打31の他、打率.304・打点78も高卒新人の歴代最高記録を残し、新人選手の二桁本塁打は27年ぶり、5人目の快挙であり、新人王に選出されます。まさに圧巻の清原の1年でした。

 

そして、プロ入り2年目。日本シリーズは、巨人-西武の新旧盟主の対決になりました。

 

シリーズ前の予想では「打力の巨人」、「投手力の西武」と評され、総合力では巨人有利とする向きが多かったのですが。

1998711月1日。日本シリーズ第6戦。西武球場。

クロマティの緩慢な守備をついた辻の好走塁が飛び出した、あの試合です。

辻の走塁が8回裏、勢いとしてはダメ押しとなる3点目。9回表の巨人を抑えれば、西武の日本一が決まります。

 

2アウト。1塁を守る清原の目から、涙があふれてきます。セカンドの辻が優しく声をかけた姿を今でも覚えています。

 

シリーズを通じて西武の試合巧者ぶりが随所に現れて、4勝2敗で巨人を下して前年に引き続き2年連続の日本一に輝きます。

歓喜の輪の中心に清原がいました。

 

80年代の桑田

 

一方、巨人に入団した桑田の背番号は18。

堀内がつけていた まさにエースナンバーです。

高卒1年めから15登板(12先発)で2勝。近年では高卒ルーキーは2軍で力をつけて、というのが当たり前ですが、ほぼ1軍での実戦配備。

 

 

 

 

 

 

 

2年目には15勝6敗。

88年には球団史上最年少の20歳で開幕投手を務めるなど、名実ともに巨人のエースです。

この時代、王~第二期藤田政権の時期にあたり、斎藤・槇原・桑田の三本柱としてチームを支えていきます。

 

圧巻の投球は、伝説の10.8として語られていますが、これは94年のことなので、また別の話。

 

二人の対決 と その後の人生

清原、桑田。

80年代のKKコンビを見てきましたが、最後に2人の対戦成績を。

オールスターでは8打数1安打1本塁打

日本シリーズでは12打数7安打3本塁打

 

オールスターは桑田に抑え込まれている数字ですが、安打1が本塁打(87年の第3戦、奇しくもあの甲子園での対戦)で飛びだしたもの。

真剣勝負での日本シリーズは、打率583、本塁打3は清原の圧勝というべきでしょう。

 

その後、1997年フリーエージェントで巨人入りした2人は、また同じチームのエースと四番なる訳ですが、KKコンビの名を復活させる報道は少なかったような気がします。

 

 

そして、桑田は2006年巨人を去り、2007年大リーグ ピッツバーグ・パイレーツを経て、その年に現役引退。

 

2005年に巨人を去った清原は、オリックスへ。2008年に現役引退。

 

その後、清原は試練の日々が続いています。

桑田もMattの父という認知度の方が高いのかも知れません。

でも、甲子園を沸かせた同じチームのエースと4番が、その後20年以上もプロ野球で活躍できたこと、それ自体が奇跡であり、できることなら奇跡の総仕上げが、二人がまた球界の指導者(せめて野球に関わる分野)で活躍する姿であってほしいと思います。

 

本日はこのへんで。次回、80年代あいうえお辞典は、「こ」の項でお会いしましょう。