む:村田兆治【むらたちょうじ】

80年代
セイジュン
セイジュン

こんにちは、セイジュン@80年代少年(@39Seijun)です。80年代あいうえお辞典、今回は「む」の項。追悼の意を込めて80年代の村田兆治投手を語ろうと思います。そうです、サンデー兆治です。

前項の「み」をお届けしてから、「む」は村田兆治さんで行こうと思っていました。

村田兆治投手。

プロ入りは68年。90年の引退まで22年間で215の勝ち星をあげており、年代別に見れば70年代が半分強を締めることになりますが、我々にとっては「サンデー兆治」としてパ・リーグ、そして川崎球場を本拠地としてたロッテ・オリオンズで輝きを見せていた80年代を代表する投手です。

まさに80年代あいうえお辞典の「む」の項に欠かせないと思っておりました。

 

そんな2022年9月の終わり、羽田空港での事件が報じられ、この記事は書けないかなと思っており「80年代あいうえお辞典」もスタックしておりました。そして、11月11日、訃報が届きました。弔意を込めて、やはり書いておきたいと思います。

 

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プロ入りから81年まで

1967年のドラフトで東京オリオンズに指名されプロ入り。広島県出身で、カープも指名を目論んでいたと言われていますが、この年は予備抽選で指名順位を決め、1番くじを引いた球団から順に1人ずつ指名していく方式で、先にオリオンズが指名しました。

高卒ルーキーとして頭角を表すのが70年代に入ってから。カネやんこと金田正一監督のもと、あの独特な「マサカリ投法」を確立して 年間30登板以上。この当時は先発も押さえも、とフル回転。76年にはキャリアハイとなる年間21勝(しかもセーブ4!)という活躍を示します。

この年にフォークを習得したと言われ、常套句ではありますが「伝家の宝刀」というのは、まさに村田兆治のフォークのための言葉だったと記憶しています。

 

肘の故障から奇跡のカムバック、そしてサンデー兆治へ

81年には、なんと開幕11連勝!年間で19勝で最多勝のタイトルも獲得します。

当時(昭和の50年代)のパ・リーグの投手陣は鈴木啓示(近鉄)、山田久志(阪急)、東尾修(西武)とキラ星のごとくのスターぞろい(かつコワモテでしたね~)。

その中でも代表格として村田兆治がいたものです。

 

しかし、好事魔多し。1982年5月、肘の故障が村田投手を襲います。その後、83年8月にはミー・ジョン手術を受けます。当時、肘にメスを入れる選手はほぼ皆無という時代の挑戦でした。

(東京スポーツ新聞社より引用させていただきました)

そして、1984年8月12日、対西武戦。大量点差が開いた9回、ついに村田投手がマウンドに戻ってきます。打者3人に対し、9球を投げ三者凡退。実に818日振りの登板でした。

明けての1985年、開幕からなんと11連勝!特に4月14日から5月26日まで日曜日に7連勝し、そしてついたあだ名が「サンデー兆治」となる訳です。

ちょうど同じ85年の4月から、NHK総合で日曜夜「サンデースポーツスペシャル」(今の「サンデースポーツ」)が始まっていて、もちろんフジTVの「プロ野球ニュース」を筆頭に、こぞって「サンデー兆治」を報じていたことを強烈に記憶しています。

この1985年は最終的に17勝5敗の成績で終え、カムバック賞を受賞。

ちなみに、このカムバック賞はセ・パで選考基準が異なっていて、パは圧倒的に厳しい!

1974年から2022年までの48年で6人しかいません。もちろん、鮮烈なカムバックとして村田投手は筆頭ではないでしょうか。

 

引退後、球速へのこだわり

1990年に引退。604登板、215勝177敗33セーブ。

その後は、NHKの解説者として活躍されます。コーチは、95年から97年の王監督下での福岡ダイエーホークスの一軍投手コーチのみ。プロ野球の監督に就くことはありませんでした。

むしろ、少年野球の指導者として全国をまわり、そして何よりユニフォームを着て最後まで球速にこだわり、

2013年(64歳)135キロ

2018年(69歳)112キロ

と、あのマサカリ投法で、ポップするようなストレートを投げ込んでいました。

こちら、70歳の投球ホームです(Full-countより引用させていただきました)。

そんな中 飛び込んできた訃報。

2022年11月11日死去。享年72歳。80歳にして100キロを見てみたかったなあ。

 

久し振りに「80年代あいうえお辞典」を書きました。次回は「め」の項。よろしければまたお立ち寄り下さい。