き:近鉄バファローズ【きんてつ・ばふぁろーず】

80年代

近鉄南大阪線藤井寺駅から西へ。5分もかからない場所に80年代の遺跡があります。藤井寺球場跡地です。

 

今回の【80年代あいうえお辞典】、今は亡き近鉄バファローズを取り上げます。

さっそく、ひとまず80年代の近鉄バファローズの戦績から振り返ってみましょう。

80年:前期2位、後期優勝。ロッテとのプレーオフを制し優勝。日本シリーズで広島と対戦(前年と同カード)、3勝4敗で敗れる
81年:前期6位、後期4位
82年:前期3位、後期2位
83年:この年から1シーズン制となり4位
84年:4位
85年:3位
86年:2位
87年:6位
88年:2位
89年:1位 日本シリーズで、巨人と対戦し3勝4敗で日本一ならず

 

まず、知っておいて頂きたいのが、80年代夜明け前である79年には、いわゆる「江夏の21球」(山際淳司さんの名著!!「スローカーブを、もう一球」に収録)として語り継がれることになる日本シリーズの名勝負があったということ。

そして、79年日本シリーズ第7戦、9回無死満塁という必勝のチャンスをスルリと逃した近鉄バファローズは、この時点で日本シリーズを制していない唯一のチームであるということ。

そんな風景・背景を理解したうえで、80年代の近鉄バファローズを振り返ってみます。

 

80年代に突入すると、早々の1980年にペナントレース優勝のあと、日本シリーズで惜敗。

以降は、Aクラス、Bクラスを行ったり来たり。2位・3位などいいところに食い込む年もあれば、時々発作的に最下位になったりします。

まあ、パ・リーグはこの時代、西武の黄金時代なわけなんですけどね。そして、あっという間に80年代も終盤。ここから近鉄劇場マが始まります。

1988年

 

88年には、かの有名な「10.19」

1988年10月19日。近鉄バファローズは、川崎球場でのロッテとのダブルヘッダーに臨みます。

整理します。この日、朝の時点で近鉄は2連勝することが優勝の絶対条件。負けたら終わり、西武の優勝です。

まず15:00試合開始の第1試合、スコアを8回まで見てみましょう。

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
近鉄 0 0 0 0 1 0 0 2
ロッテ 2 0 0 0 0 0 1 0 3

 

この試合、ダブルヘッダーにより第1試合は9回が終わった時点で同点の場合、引き分け試合終了です。つまりその時点で優勝ナシ。そして9回表の段階で3-3の同点。

 9回表、一死後淡口憲治が二塁打で出塁、代走に佐藤純一。ここでロッテはリリーフの牛島和彦を投入。近鉄の鈴木は右翼手前に安打を放つ。三塁ベースコーチの滝内弥瑞生は本塁突入を指示したが、前進守備だった右翼手からの返球もあり、佐藤純一は三本間に挟まれ、捕手小山昭吉に触球されて憤死。二死二塁。絶対絶命!
 ここで近鉄は代打に梨田昌孝。ボールカウント1ボールからの2球目、梨田は中堅手前に落ちる安打を放つ。二塁走者の鈴木は三塁を回り本塁へ生還、近鉄が勝ち越し点!!
 9回裏、抑えの吉井理人が先頭打者代打丸山一仁に四球を与え、続く代打山本功児に対しても2ボール0ストライク。ここで吉井に代えてリリーフに、2日前の試合で9回完投した阿波野秀幸を送る。
 阿波野は、一塁走者丸山の守備妨害などもあり二死一塁としたが、佐藤健一に二塁打を許し、続く愛甲も2ストライクと追い込みながらも死球を与え、二死満塁。絶対絶命!しかし、阿波野は次打者森田芳彦を三球三振に仕留めて試合終了!!

 

終了時刻は18時21分で、試合時間は3時間21分。

近鉄の勝利により、優勝の行方は130試合目である第2試合に持ち越されることになりました。

では、運命の第2試合。ここでも8回まで、3-3の同点。

当時のパ・リーグは9回終了時点で同点の場合、最大12回までの延長戦を行うとしていましたが、「試合開始から4時間を経過した場合は、そのイニング終了をもって打ち切り」というレギュレーションもありました。これが悲劇の伏線となったわけです。

 

 9回裏、ロッテは先頭打者古川慎一が出塁。続く袴田の犠牲バントの打球を阿波野と梨田が一瞬譲り合い交錯、内野安打となり無死一・二塁。ここで阿波野は二塁へ牽制球を投じた。牽制球は高めに浮き、大石が三塁寄り方向にジャンプして捕球。その体勢のまま、二塁走者の古川と交錯しながら触球。二塁塁審の新屋晃は触球の際、古川の足が二塁ベースから離れていたとしてアウトを宣告。古川は新屋塁審に抗議し、ロッテの監督の有藤通世もベンチを飛び出して「大石が古川を故意に押し出した」と走塁妨害を主張した。
 この抗議の時点で試合時間は3時間30分を過ぎていた。近鉄ベンチから仰木が飛び出し有藤に迫り、客席からも罵声や怒号が飛び交うなど騒然とする中、有藤の抗議は9分間に及んだ。結局判定は覆らず一死一塁から試合再開となる。その後ロッテは西村の二塁打などで二死満塁としたが、愛甲の飛球を左翼手の淡口が好捕し、勝負は延長戦に突入した。
 延長10回表、この回先頭のブライアントの二塁ゴロを捕った西村の送球を、ベースカバーの投手の関清和が後逸し出塁を許す。続くオグリビーは三振で一死。羽田耕一の打球を、二塁手の西村が捕球。そのまま二塁を踏み、一塁へ送球、併殺打で三死となり、近鉄の攻撃は終了した。
この時、時刻は22時41分、試合開始から3時間57分が経過していた。次の延長イニングがなくなる4時間までの残り3分で10回裏のロッテの攻撃を終わらせることは事実上不可能であったが、近鉄ナインは10回裏の守りについた。
 マウンドに上がった加藤哲郎は投球練習を省略し、少しでも試合を早く進めようとしたが及ぶべくもなく、22時44分、西武の4年連続リーグ優勝が正式に決まる。そして4-4の同点のまま22時56分、時間切れ引き分けで試合は終了した。

1988年10月19日。

この日、ニュースステーションでは久米宏キャスターの冒頭の断りのもと、六本木アークヒルズからの報道をストップし、川崎球場からの中継を行いました。

大英断です。

当時はまだ巨人戦を中心とした日テレ地上波でのプロ野球中継が華やかなりし頃でありました。

平時であれば、近鉄・ロッテ戦、しかも川崎球場、などがTV中継されることは(土日のデイゲームを牧歌的に中継することを除けば)皆無と言ってよかったでしょう。

それを、ニュースステーションを潰してでも放映するとは。

近鉄の魔力としか言いようがありません。

 

10回裏、勝利がなくなった、つまりは優勝を逃した後に、呆然とセカンドを守る大石第二朗の佇まいを、そしてベンチの中央で仁王立ちする仰木監督の雄姿を今でも記憶しています。

1989年

 

明けての1989年。80年代ラストイヤーです。

パ・リーグはオリックス、西武、そして近鉄の三つ巴でペナントレース終盤。

前年同様10月のある日、西武・近鉄のダブルヘッダーを連勝で制したバファローズがパ・リーグ優勝となりました。

とある日、とは10月12日。長いプロ野球史で、暦4桁で語ることの出来るのは、

前年の10.19、この年の10.12。それ以外で言えば、10.8(各自調べてください)の3日だけと一旦、断言しておきましょう。

 

そして迎えた日本シリーズ。

せ・リーグの覇者は名門ジャイアンツ。

戦前の予想はジャイアンツ有利と言われていました。

蓋を開けてみると、バファローズの3連勝。

3連勝後、抑えで勝利投手となった加藤哲郎が「巨人はロッテより弱い」と言ったとか言わないとかでその後、4連敗。

ちなみに加藤哲郎は、前年の10月19日、優勝の望みのなくなった10回裏のマウンドに立っていた投手です。

端的にいえば、この年の日本シリーズは、近鉄が3勝して巨人が4勝したのではなく、単に近鉄が3勝して4敗したにすぎない訳です。

80年代終盤、夜空に咲いた近鉄バファローズの大輪は、凡そ25年後の2004年に幕をおろすことになりました。。。日本一に一度も輝くことなく。

次回、【80年代あいうえお辞典】。「く」の項でお会いしましょう。