西武ライオンズに入団したばかりの清原選手が、オールスターでホームランを打ったあの日。
夏期講習から帰ってきてテレビを見ていた僕は、同い歳の清原がダイヤモンドを一周するのを呆然と見ていました。
ピッチャーは大洋ホエールズの遠藤でしたっけ。。
若く天使のようなアイドルが自らの命を絶ったあの日。
「今から四谷に行ってくる」とチャリンコにまたがる友人の背中を見送った僕も、友人も、そして天使のようなアイドルも同い歳でした。
夜通しフジテレビで「ライブエイド」を見続けて、日曜のお昼で途中で中継終了。
12時から「クイズ・ドレミファドン」が始まり、いきなりマッチの鼻歌イントロドン!で思いっきり脱力したっけ。
はじめてギターを弾き、はじめてデートをして、はじてタバコを吸い、はじめて酒を飲んだあの頃。。
そう、はじめての酒は中学3年の夏の夜、友達と忍び込んだ図書館のベランダでのコークハイでした。はじめてのタバコは「サムタイム」です。
はじめてのレコード、はじめてのCD、はじめてのライブ。。。
1980年代。あの頃、僕はバカだった。。
でも、今では、もしかして失ってしまった何かを、僕は(僕らは)持っていたのかも知れません。
中学1年から大学生活まで、途中の浪人生活をはさんでの約10年間を、サブカルから経済・政治までアレコレ振り返ってみたいと思います。
50音あいうえお順に振り返っていきましょう。
では、前置きはこのくらいにして、「あ」から早速はじめましょう。
【あーるしー・さくせしょん】RCサクセション
RCサクセションのデビューは70年代ですが、シングル「雨上がりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」そして、アルバム「PLEASE」のリリースが80年。そして90年に入るとバンドとしての活動は停止になっていくので、80年代のバンドといっていいと思います。
僕がRCサクセションを知ったのは、忌野清志郎と坂本教授の「いけないルージュマジック」(82年)から。
RCサクセションとしては、「サマーツアー」(82年)が出た頃でした。
清志郎のボーカル、チャボのギターといフロントマンに加えて、リンコ・ワッショーのグルーブ感たっぷりのベース、新井田耕造のドラム、ゴンタ2号のキーボード、そしてドクトル梅津らのホーンセクション、全てが完璧でした。
しびれたのが、「夜のヒットスタジオでガム噛みながら出てきて、お茶の間の皆様から抗議殺到」事件!かっこいいよなあ。
ライブも通いました。
あの頃は、清志郎の化粧を見て、「パンク??」なんて解釈もあったけど、日本で最高のロックバンドのひとつでありました。
夏に野外(サイコーだったのが86年の日比谷野音!)、クリスマスに武道館。
80年代半ば当時、クリスマスの武道館といえば、RCサクセションのものでした。
まさにキング オブ ライブでしたね。
トップの画像が当時のチケットです。
当時はチケピが出来る前夜だったと記憶しており、チケットも無味乾燥なコンビニ打ち出しではなくて、バンドごとのデザインが施されたそれ自体がアートでした。
よく見ると3,000円とあります。
人気バンドの武道館ライブが3,000円です。だいたい今と比べると1/3以下の感覚でしょうかね。
RCサクセションのアルバムは、いまだに「BEAT POPS」「OK」「THE KING OF LIVE」「FEEL SO BAD」あたりを聴いています。
1枚を挙げろといわれると難しいのですが、ライブ盤かな。「THE KING OF LIVE」。
そして、今日5月2日はバンドのフロントマン忌野清志郎さんの命日なのです。
そう、、清志郎は、2009年の今日、銀河ツアーに旅立ちました。
享年58歳、もう11年前のことになるのか。
清志郎が生きていたら、今のこの状況をどんな音楽で励ましてくれたんだろうなあ。。
次回は、「い」の項でお会いしましょう。