こんにちは、セイジュン@80年代少年です。一年遅れの東京五輪、やるのかやらないのか、やらないのかやるのか、まだまだ不透明な中、聖火リレーも始まります。では五輪つながりで80年代の夏季五輪に思いを馳せて、モスクワ・ロス・ソウルオリンピックを振り返ってみましょう。
10年単位で見ると4年周期のオリンピックは2回開催か3回開催かに分かれます。80年代の夏季五輪は、3回。80年のモスクワ。84年のロサンゼルス。88年のソウル。
ご存知の通り、オリンピックは「国」主体ではなく「都市」が主体でありますが、国でいえば、旧ソ連、アメリカ、そして韓国ということです。では、まずはモスクワから振り返ってみましょう。
1980年:モスクワオリンピック
モスクワオリンピック。開催されたのは、1980年7月19日から8月3日までの16日間。ソビエト連邦(ソ連)の首都でのことです。
共産圏、社会主義国では初の開催でしたので、本来であれば、世界融和の象徴となる大会だったのかもしれません。本来であれば。。残念ながら、ボイコット問題で、むしろ「スポーツと政治」の関係が問われた大会となってしまいました。
(写真は、柔道の山下泰裕、レスリングの太田章ら、オリンピアンたちの涙の抗議です)
モスクワオリンピックのボイコット問題をご存じない方もいらっしゃると思いますので、簡単に。
・西側諸国が賛同する中、日本政府もアメリカからの要請を受け、大会ボイコットの方針を固めた
・日本オリンピック委員会 (JOC) は大会参加への道を模索したが、同年4月 日本国政府の最終方針としてボイコットがJOCに伝えられた。多くの選手はJOC本部で大会参加を訴えた
当時、小学校高学年の私には、政治の動向は理解できませんでしたが、日本の不参加が決まり、実際に大会が始まると日本選手が出ておらず、またモスクワからの中継も夜遅く、ということで印象の薄いオリンピックとなっております。
むしろ、モスクワオリンピックといえば、次の2組・人を強烈に記憶しています。
まずは、ジンギスカン。西ドイツのポップグループ。この曲しか知りませんので、ワンヒットワンダー(まあ、いわゆる一発屋)だったのでしょうか。唄うはこの曲「めざせモスクワ」!!
もう一人は、こちかめこと「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に登場した日暮熟睡男(ひぐらしねるお)。4年に1度登場する伝説のキャラクターです。
初回登場は、このモスクワオリンピック。もちろん、少年ジャンプで、発売日当日に読みました。その時は、リオオリンピック(2016年)まで登場するとは思いもよらず。。。
1984年:ロサンゼルスオリンピック
ロサンゼルスオリンピック。1984年7月28日から8月12日までの16日間、アメリカ合衆国の西海岸第一の都市で開催されました。
モスクワオリンピックが、西側諸国ボイコットで今一つ盛り上がらなかった反動からか、当時の日本でもワクワク感・待ちに待った感ある中で始まりました。特に度肝を抜かれたのが開会式。
ロナルド・レーガンによる開会宣言、ジョン・ウィリアムズによるオリンピックテーマ曲、風船を持った人間による人文字、軽飛行機による「WELCOME」の文字の描かれた幕を牽引した展示飛行、飛行船2隻による巨大な「WELCOME」の幕の上空掲揚、ビル・スーターの操縦する個人用ジェット推進飛行装置・ロケットベルトを使った空中遊泳(俗にロケットマンと呼ばれた)、多数のピアノを使用したラプソディ・イン・ブルーの演奏などが催され、とくにロケットマンの演出は大きな話題を呼んだ(wikiより)
そう、ロケットマンです!ビックリしたなあ~。アメリカへの憧れっていうものを明確に感じました。
開会式の興奮からか、その後の競技も熱心に観戦しました。日本選手でいえば、柔道の山下泰裕。
右ふくらはぎを痛めた山下と、そこを攻めないエジプトのモハメド・ラシュワンとの決勝。しびれたなあ。体操男子(森末慎二、具志堅幸司)の金メダル、今となっては牧歌的な技ですが、スッとした姿勢、それだけでもカッコよかです。
とはいえ、この大会はなんといってもカール・ルイスです。
100m、200m、走幅跳、男子4×100メートルリレーの4種目にエントリーし、全種目で金メダルを獲得しました。唖然とする強さで、日本でも大人気となり、翌年の85年には、なんと「ザ・ベストテン」のスポットライトのコーナーに出るほどでした。
1 悲しみにさよなら 安全地帯
2 夏ざかりほの字組 Toshi & Naoko
3 メロディ サザンオールスターズ
4 ラッキー・チャンスをもう一度 C-C-B
5 セーラー服を脱がさないで おニャン子クラブ
6 初戀 斉藤由貴
7 俺たちのロカビリーナイト チェッカーズ
8 華麗なる賭け 田原俊彦
9 シャイニン・オン君が哀しい ルック
10 あなたを・もっと・知りたくて 薬師丸ひろ子
スポットライト
He is STAR カール・ルイス
Come Back My Baby Girl カール・ルイス
いいですか、皆さん!2曲も唄っているのですよ!
その後、カール・ルイスは、88年(ソウル)・92年(バルセロナ)のオリンピックにも参加しています。また、世界陸上でも活躍、特に91年の世界陸上競技選手権大会・東京大会では100mで当時の世界記録となる9秒86をマークして優勝し、人類で初めて100mを9秒8台で駆け抜けます!
ミスターこと長嶋茂雄さんの「ヘイ!カール!」という名言を引き出しています。
「商業主義」の弊害、またモスクワ大会の報復として東側諸国(ビエト連邦、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、キューバ、エチオピア、アフガニスタン、アンゴラ、イラン)のボイコットという陰の側面はありましたが、個人的には強烈な印象を残してくれたオリンピックでした。
1988年:ソウルオリンピック
1984年7月28日から8月12日までの16日間、韓国の首都ソウルで開催されたオリンピックは、アジアでの2度目の夏季オリンピックでもあります。
80年代の夏季オリンピックでは、モスクワ・ロサンゼルスと2回続けて東西ボイコット合戦が続いて折りましたが、この大会では、アメリカ・ソ連と東西大国が参加しました。
東ドイツ勢も含めて、個人種目での記録ラッシュ、そして団体戦も好試合が多かった印象があります。
選手としては、日本勢は 柔道の斉藤仁。バサロスタートの鈴木大地。海外選手に目を向ければ、ロスに続けてカール・ルイスの活躍が挙げられますが、この大会からは女性選手をピックアップしましょう。フローレンス・ジョイナーです。
女子100m、200mの2冠。そのタイムは、未だに世界記録のままです。30年以上です!
ジョイナーの日本での人気は「オレたちひょうきん族」で、明石家さんま、ラサール石井、何人トリオが扮したかまへんライダーが移動するときの歌のフレーズにも出てきたほどの人気でした。そう、「ちょいなちょいな」の部分を、「ジョイナー・ジョイナー」と唄っていたあのフレーズです。
ジョイナーさんは、その後37歳という若さで逝去されました。
先ほどの写真からも分かる通り、異常なまでの筋肉の発達、そして30年経っても破られない突出した(突出しすぎた)記録から、おそらくはドーピングによる影響と言われています。
スポーツ界におけるドーピング問題が言われ始めたのも、この頃からでした。
さて、80年代 夏季オリンピックを振り返ってみました。改めて、東京オリンピック、どうなるんでしょうね。また、今度は冬季オリンピックを振り返ってみますね。では。