こんにちは、セイジュン@アラフィフ応援隊です。80年代あいうえお辞典。本日は、「う」の項。「う」といえば、宇野勝さん。1981年8月26日、衝撃の事件が後楽園球場を襲います!
宇野勝:プロフィール
まずは、宇野勝さんのプロフィールから、です。
1958年5月30日生まれの宇野勝さん。
・同年秋、ドラフト3位で中日ドラゴンズに入団
・1年めは、2軍(ウエスタンリーグ)でじっくり育成
・2年目に一軍で初安打、初本塁打を記録
・迎えた3年目の79年はショートの定位置を確保
と、高卒ルーキーとして順調にプロ野球人生をスタートさせ、 「打てる遊撃手」として、以降の活躍は次の通りです。
・この年から5年連続を含む7度の20本塁打を達成
・84年には37本塁打で初の本塁打王に輝く
・85年に40本塁打をマークして、遊撃手の年間最多本塁打記録を樹立
・88年はゴールデン・ルーキー立浪にショートを譲って二塁にコンバート
・その後も遊撃、三塁、外野とポジションを転々としながらも89年には自己初の3割
・91年には1500安打と300本塁打を達成
・92年オフには地元・千葉のマリーンズへ移籍
・94年限りで現役引退
【生涯成績】
通算18年/試合1802試合/打席6926/打数6188/得点840/安打1620/本塁打338/打点936
【タイトル】
本塁打王1回(84)/ベストナイン3度(82、84、87)受賞/オールスター出場3度(87、89、93)/月間MVP4回(83年8月、84年8月、87年4月、90年7月)/日本シリーズで88年に敢闘賞受賞
実勤18年、超々一流選手ではなかったのかも知れませんが、長距離ヒッターとしてセリーグ人気球団の中軸を打ち、一時代を築いた記憶に残る選手だったと思います。
立浪という超一流選手が後輩に入って来なければ、
ロッテで定位置を確保出来ていれば、
もう少し現役が伸びていれば、
2000本安打を達成し名球会入りしていたかも知れません。
ウーやんヘディング事件
さて、暦を1981年8月に巻き戻します。
セ・リーグのペナントレースは、ジャイアンツが独走。
この年から藤田元司監督となり、投手陣は、西本聖・江川卓・定岡正二・加藤初がローテーションを守り、抑えに角三男。打撃陣は、「青い稲妻」松本匡史、首位打者を争う篠塚和典、「絶好調男」中畑清、そしてこの年の新人王(!)に輝く「若大将」原辰徳が活躍するという贅沢な布陣でした。
結果的に、日本シリーズも日ハムを4勝2敗で下し、みごと3年ぶりにV奪還となります。
そんな中の8月26日、後楽園球場での巨人・中日戦19回戦、中日が2点リードで迎えた7回裏巨人の攻撃も、二死一塁(ちなみに一塁走者は「巨人史上最強の五番打者」ことマムシの柳田)となったところで、事件が起きます。
マウンドは、オトコ星野仙一。打席には、代打山本功児。
山本功児が打ち上げた打球は、ショート後方へのフライに。
そして、我らが宇野勝は、、、
あろうことか、オデコで受け止めてしまったのです。
一説には、人工芝にスパイクが絡んだとか、照明が目に入ったとか、原因はさまざまに挙げられています。
しかし、フライをおでこに当てたという牧歌的なエラーは、宇野選手のあの必要以上に濃い眉毛と、うっすらと紅をうかべた頬の印象、「うーヤン」という愛称もあいまって、球史に残る珍プレーとして人々の脳裏に焼き付いています。
後日譚
そう、「珍プレー」という言葉自体が認識されたのは、このプレイがあったからこそです。
その証左に、「プロ野球ニュース」の中のひとつのコーナーに過ぎなかった字幕版おもしろプレー集にみのもんたがアテレコをつけて珍プレー好プレー集へと昇華され、そしてついには、1983年11月『決定!!'83第1回プロ野球珍プレー好プレー大賞』としてゴールデンタイムでの放送が始まったのです。
もしも宇野選手が、ボールをオデコで受け止めなかったら、
その後のみのもんたの活躍もなかったかもしれない、
80年代のフジテレビの興隆もなかったもしれない。
グラブをたたきつけて怒ったという星野仙一に、闘将のイメージがついたのもこのプレイがあったからこそです。その後の名将への伝説もなかったかもしれないのです。。。
追記:闘将星野仙氏一が逝去して、3年。また、レフトからカバーに走った大島康徳氏も今年亡くなりました。81年、昭和56年。昭和も遠くなりにけり。
本日の80年代あいうえお辞典は、ここまで。では、次回は「え」の項で。