せ:戦場のメリークリスマス【せんじょうのめりーくりすます】

80年代

こんにちは、セイジュン@アラフィフ応援隊です。今回は大島渚監督作品「戦場のメリークリスマス」について。1983年の衝撃作です。

80年代あいうえお辞典、今回は「せ」の項。久し振りに映画を扱います。

「戦場のメリークリスマス」です。

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映画:戦場のメリークリスマス

「戦場のメリークリスマス」、略して「戦メリ」。

我々、80年代の少年たちは、公開前に「ビートたけしのオールナイトニッポン」でこの映画を知ることになります。

ロケ地のラロトンガ島での出来事を、殿が連発してくれたおかげです。

 

大島監督が、壁にへばりついたトカゲに「スタート!」とキューを出したとか。

日本からの食料配給で、教授がうれし涙を流しながら冷凍うなぎを食べたとか。

 

さて、本編。私の場合は実際に本編を見たのは封切り直後ではなく、吉祥寺にあった名画座のテアトル吉祥寺で「時をかける少女」との二本立てで、でした。

見てビックリ。あらすじだけをいうと、

大島渚監督が、第2次世界大戦中のジャワの日本軍捕虜収容所を舞台に、極限状況に置かれた人間たちの相克を描いた異色のヒューマンドラマ。日本軍のエリート士官ヨノイと連合軍捕虜セリアズ少佐の愛情めいた関係を中心に、日本軍人と西洋人捕虜との関係が興味深く描かれる。デビッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしといった国内外の異色スターたちが共演。坂本の音楽も高い評価を獲得し、テーマ曲「Merry Christmas Mr. Lawrence」は誰もが知る名曲となった。 映画.comより

という感じなのですが、80年代の少年としては、それまではアニメかスペースオペラか角川映画かという世界で生きていましたから、「戦争という異常状態における同性の愛」という内容がショックな作品でした。

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3人のスターと大島監督

さて、「戦メリ」の4人。監督と3人のスターを見てみましょう。

1983年5月公開当時、

大島 渚      51才(1932年3月生まれ)
ビートたけし    36才(1947年1月生まれ)
デヴィッド・ボウイ 36才(1947年1月生まれ)
坂本 龍一     31才(1952年1月生まれ)

みんな若い!しかも殿とデビット・ボウイは同い年!

 

大島渚

まずは、大島渚監督から。

1954年、京都大学を卒業後、松竹に入社。助監督を経て1959年に監督デビュー。

以降、日本のヌーヴェルバーグの旗手として作品を撮り続けながら、1961年独立。

70年代に入ると、「愛のコリーダ」(1976年)で世界進出を果たします。

そして1980年代、40代後半から50才にかけて「戦メリ」を制作するに至ります。

 

ビートたけし

殿、こと ビートたけし。

1980年、花王名人劇場から始まる漫才ブームで、ツービートのボケ役として、殿を知ることになります。

そして、「笑ってる場合ですよ」の火曜レギュラー。

1981年1月からスタートした「ビートたけしのオールナイトニッポン」では、僕ら80年代少年の深夜のスターでした。

「戦メリ」の頃は、スーパージョッキー(日曜昼)、世界まるごとHOWマッチ(木曜夜)をはじめ、テレビで見ない日がないという絶頂期でした。

 

坂本龍一

教授、こと 坂本龍一。

1978年、細野晴臣・高橋幸宏とともに「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)結成。

YMO名義の『イエロー・マジック・オーケストラ』を発売、続く『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』で爆発的人気を博します。

どのくらいすごかったかというと、1980年のオリコン年間アルバムチャート10に3枚入っているほどです。

1979年から1980年にかけて、YMOとして2度にわたるワールドツアーを実施。こちらは、YouTubeで、「YMO 海外 ライブ」で検索すると、ロンドンの映像が垣間見えます。

そして「戦メリ」公開前年の1982年には、RCサクセションの忌野清志郎と組んでシングル『い・け・な・いルージュマジック』をリリース、こっちもCMソングとして鮮烈的でした。

 

デヴィッド・ボウイ

1967年6月にアルバム「デヴィッド・ボウイ」でデビュー。

70年代はグラムロック、カルトヒーロー、そしてこの1980年代にメインストリームに転じてアルバム「レッツ・ダンス」がキャリア最大のヒットとなっている頃です。

レッツダンスの収録。1曲目から3曲目がこの並びです。ディスコで流れていたなあ。

1.「モダン・ラヴ」(Modern Love)
2.「チャイナ・ガール」(China Girl)
3.「レッツ・ダンス」(Let's Dance)

こちら、Amazonプライム「30日間の無料体験」で聴けます。

 

「戦メリ」後の4人

 

その後。

大島監督は、80年代後半から「朝まで生テレビ」のご意見番に就任。1996年に病に倒れる(脳出血)も、1999年「御法度」を世に出します。

たけしさんは、1986年冬、フライデー襲撃事件を起こし1年ほどのブランクがありましたが、その後もTVでの活躍は今日まで続き、また1989年の「その男、凶暴につき」から映画監督して、世界的な名声を得ています。

坂本教授は、1987年、映画「ラストエンペラー」公開。甘粕正彦満映理事長役で俳優として出演し、音楽音楽も担当。グラミー賞 映画・テレビサウンドトラック部門、ゴールデングローブ賞 作曲賞、アカデミー作曲賞等を日本人として初めて受賞し、以後、映画音楽作家としての地位を確立することになります。

 

大島監督が亡くなられたのが2013年、80歳のこと。そして、デヴィッド・ボウイは2016年に死去。69歳でした。R.I.P

 

では、80年代あいうえお辞典、次回「そ」の項でお会いしましょう。